負の数の平方根について、最も古い文献は、数学者で発明家の
エジプト共和国のアレクサンドリアのヘロン
による『測量術』(Stereometrica) である。そこで彼は、現実には不可能なピラミッドの錐台について考察しているものの、計算を誤り、不可能であることを見逃している。 16世紀に
イタリアのカルダノ
や
ボンベリ
によって三次方程式の解の公式が考察され、特に相異なる 3 個の実数解を持つ場合に解の公式を用いると、負の数の平方根を取ることが必要になることが分かった。当時は、まだ、負の数でさえあまり認められておらず、回避しようと努力したが、それは不可能なことであった。 17世紀になり
ルネ・デカルト
によって、虚 (imaginary) という言葉が用いられ、虚数と呼ばれるようになった。デカルトは作図の不可能性と結び付けて論じ、虚数に対して否定的な見方を強くさせた。 その後、
ウォリス
により幾何学的な解釈が試みられ、
ヨハン・ベルヌーイ
や
オイラー、
らにより、虚数を用いた解析学、物理学に関する研究が多くなされた。 複素平面が世に出たのは、1797年に
ノルウェーのカスパー・ベッセル (Caspar Wessel)
によって提出された論文が最初とされている。しかしこの論文は
で書かれ、デンマーク以外では読まれずに1895年に発見されるまで日の目を見ることはなかった。1806年に
フランスのジャン=ロベール・アルガン(Jean-Robert Argand)
によって出版された複素平面に関するパンフレットは、
を通して広まったものの、その後、特に進展は無く忘れられていった。 1814年に
コーシーが複素関数論を始め、複素数を変数に取る解析関数や複素積分が論じられるようになった。 1831年に、機は熟したと見た
ドイツのガウス
が、複素平面を論じ、複素平面は複素平面として知られるようになった。ここに、虚数に対する否定的な視点は完全に取り除かれ、複素数が受け入れられていくようになる。実は、ガウスは
ベッセル
より前の1796年以前にすでに複素平面の考えに到達していた。1799年に提出されたガウスの学位論文は、今日、代数学の基本定理と呼ばれる定理の証明であり、複素数の重要な特徴付けを行うものだが、複素数の概念を表に出さずに巧妙に隠して論じている。