カール大帝

フランクフルト・アム・マインは、794年2月22日にカール大帝レーゲンスブルクの聖エメラム修道院宛に発した文書に初めて記述されている。この文書にはラテン語で次のように書かれている  "… actum super fluvium Moin in loco nuncupante Franconofurd"「マイン川の畔にフランクフルトと名付けられた村がある」 すなわち、ドームヒューゲルの集落は新石器時代から継続的に存続していることが証明されている。

この村は、おそらくローマの軍事基地となり、メロヴィング朝時代にフランク王国の王宮所在地となった。  カール大帝はこの地に長期間滞在したが、以後1378年までに王・皇帝のここでの滞在は約300回に及んだ。カールの時代には国王荘館(Königlicher Wirtschaftshof)があったと推測される。続くルートヴィヒ1世(敬虔王)の治世には26,5m x 12mの広間を擁する王宮(Königspfalz)があった。特にルートヴィヒ2世ドイツ王)にとってはお気に入りの滞在地で(833年10月から876年8月までに33回)、フランクフルトは、876年にプリュムのレギノに「東国王の主要居住地」(principalis sedes regni orientalis)と呼ばれ、ほとんど国王居城地的性格(Residenzcharakter)を持っていた。カロリング朝歴代の王はこの地で頻繁に宮廷会議(Hoftage)や帝国会議(Reichsversammlungen)を開催し、広大な御料林(Reichsforst)「ドライアイヒ」(Dreieich)で狩りを行った。こうして、この「王宮は都市形成の過程における旧市区的核」となった。