ドナウ帝国とハンガリー王国

オーストリア帝国の関心は、必然的に東側のドナウ川流域に向けられることとなった。すなわちドナウ帝国観念の浮上である。 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、ハンガリー貴族たちの要求に応えてアウスグライヒを実行し、オーストリア帝国からハンガリー王国領を分離した。フランツ・ヨーゼフ1世は聖イシュトヴァーンの王冠を戴いてハンガリー王位に就くことで、1867年5月29日に「オーストリア=ハンガリー帝国」を成立させた。二重帝国の中央官庁として共同外務省と共同財務省が設置されたが、外交・軍事・財政以外の内政権は完全に認められるなど、形式的にはハンガリーは独立王国となった。一民族のみが優位を獲得したことを受けて、諸民族のハンガリー人に対する反発が高まったが、彼らはまた同時にみずからも妥協をかち取ろうと工作を開始した。聖ヴァーツラフの王冠は、神聖ローマ皇帝カール4世が、自らをチェコの英雄ヴァーツラフ1世の後継者であることを印象付けようとして作らせた。ボヘミア王権の象徴である。 アウスグライヒ直後の1867年12月に制定された新憲法では「諸民族の平等」が規定された。1871年ハンガリーに採られたものと同様の措置を要求するボヘミアチェコ人たちに対し、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世ならびにドイツ人の優位性を維持しながら自由主義的な中央集権体制を目指す「ドイツ人自由派」に属する首相カール・ジークムント・フォン・ホーエンヴァルトは、聖ヴァーツラフの王冠のもとにボヘミア王国の独立を承認しようとした。フランツ・ヨーゼフ1世ボヘミア国王としての戴冠式の実施も決定され、実現すれば「オーストリアハンガリーボヘミア三重帝国」が樹立されるはずだったが、この戴冠式ハンガリー首相アンドラーシ・ジュラ伯爵の猛反対に遭って断念された。ハンガリー国内の総人口においてハンガリー人は半分程度しか占めておらず、ハンガリー国内でのスラヴ民族の地位向上に繋がってしまう恐れがあり、またスラヴ民族の盟主としてロシア帝国の介入を促す恐れもあったためと考えられている。実際に適用されたのはハンガリーのみに留まったが、この時期のオーストリア帝国による一連の「妥協」の動きは、同君連合への移行という形での帝国連邦化計画だったといえる。フランツ・フェルディナント大公の暗殺 / ハンガリー国内では、大公のようなハンガリー人の権利を脅かす皇位継承者は不信感を持たれていた。帝国議会議員レートリヒは次の発言を残している。「ハンガリーではよく耳にするよ。『ハンガリー人の神様が、哀れなセルビア野郎に発砲するよう仕向けたんだ』とね」 フランツ・ヨーゼフ1世は「三重帝国」計画を断念せざるをえず、また年齢を重ねるにつれて保守的になっていき、晩年には三重帝国を認める気はなくなった。しかし、皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公は、ボヘミアの伯爵令嬢ゾフィー・ホテクを妃としただけあって親スラヴ的な傾向があり、また帝国においてすでに高い地位を占めているにも関わらず諸々の要求をするハンガリーを嫌悪していた。 フランツ・フェルディナント大公と「ベルヴェデーレ・サークル」と呼ばれる大公の仲間たちは、皇位を継承した際の帝国改編について、以下の3つの案を持っていたとされる。ハンガリーに男子普通選挙を導入し、議会においてハンガリー人が過大に代表されている状態を是正する 「二重帝国」の枠組みを廃し、集権的な大オーストリア国家を創出する ハンガリー人以外の国民にも個別に妥協し、局地的な再編を行う ベルヴェデーレ・サークルに所属していたアウレル・ポポヴィッチ1906年に発表した『大オーストリア合衆国』(Vereinigte Staaten von Groß-Österreich)という書物は、当時のベストセラーとなった。この本では、君主国全体を民族集団の分布に応じて15の「半主権的州(halbsouveräne Staaten)」に区分することが想定された。1911年、ベルヴェデーレ・サークルに所属していたミラン・ホッジャは、フランツ・フェルディナント大公に宛てた覚書の冒頭で「皇位継承後すぐの段階で、クーデタ(Štátny prevrat)あるいは漸進的な改革によって二重主義を撤廃し、『ハンガリー人分離主義者の野望』を打破すべき」と書いている。皇位継承者の周囲はこうした思想の人物で固められており、皇位継承者自身も、完全に同一とまではいかなくとも彼らと類似の思想を持っていたのである。 1914年春に84歳のフランツ・ヨーゼフ1世が危篤状態に陥った時、すぐさまフランツ・フェルディナント大公はベルヴェデーレ・サークルのメンバーを招集し、崩御の際の対応策を協議した。ハンガリーについては連邦化と男子普通選挙の導入が予定され、ハンガリー議会が改革を拒否した場合には勅令で導入することも検討された。皇帝が快復したことにより、ベルヴェデーレ・サークルのプランは幻のまま終わった。それからわずか数か月後にサラエボ事件でフランツ・フェルディナント大公は暗殺され、ベルヴェデーレ・サークルはその役目を終えることになる。