ベルリン会議

ベルギー国王レオポルド2世は、植民地帝国形成の第一歩として、コンゴ植民地化に関心をよせた。1878年、上コンゴ研究委員会(後のコンゴ国際協会)のもとで探検家スタンレーをコンゴに派遣、現地の調査や交通網の整備にあたらせた。すでにこの段階でスタンレーは数十の基地を設置し、現地勢力の長たちと様々な取り決めを結んでいた。こうした急速なベルギーのコンゴ進出に対し、以前より沿岸部の権益拡大を進めていたポルトガルが反発し、1882年にはコンゴ川河口地域における主権を宣言した。イギリスはこれを支持したが、アフリカ植民地化をめぐりイギリスと対立していたフランスは、ポルトガルを支持せずにベルギーを支持する一方、自ら探検家ピエール・ド・ブラザをアフリカ内陸部に派遣した。

宰相ビスマルクのもとにあったドイツもポルトガル支持を見送った。アフリカをめぐる一連の問題解決をめざし国際会議がドイツのベルリンで開催された。