ボーア戦争

これらの外国人はボーア人より多かったが、全体としてみればトランスヴァール共和国の少数派のままだった。アフリカーナーたちは彼らに投票権を与えず、金産業に対しても重税を課した。これにより、外国人および英国人の鉱山主からボーア人政府打倒の圧力が高まっていた。  1895年、セシル・ローズはジェームソン (Jameson Raid) による武装クーデターを企てるが、失敗に終わった。  

英国人に対しての不平等な待遇は、ケープ植民地への軍事力の大幅な増強を正当化するための口実として用いられた。英国植民地の重要なリーダーたちの中にもボーア人共和国の併合を支持する者がいたためである。このキーマンとされるのは、ケープ植民地の知事(高等弁務官)アルフレッド・ミルナー卿、英国植民地相ジョゼフ・チェンバレン、鉱業シンジケートのオーナーたち(アルフレッド・バイト、バーニー・バルナート、ライオネル・フィリップスら)などである。

ボーア人たちを攻め落とすことなど簡単だと確信していた彼らは、再び戦争を引き起そうとしていた。  オレンジ自由国の大統領マルチナス・ステイン (Martinus Steyn) は、1899年5月30日にブルームフォンテーントランスヴァール共和国の大統領クルーガー及びミルナー卿との会議を開いたが、交渉はあっという間に決裂した。  1899年9月、チェンバレントランスヴァール共和国に対し、大英帝国臣民への完全に同等な権利を付与することを要求する最後通告を送った。だがクルーガー大統領もまた、チェンバレンからの最後通告を受信する前に、彼の方からも最後通告を出していた。これは、48時間以内にトランスバール共和国およびオレンジ自由国の全域から全て英国軍を退去するように求めるものであった。