黄宗羲 

王陽明とは同郷にあたる。父の黄尊素は明末の東林党の指導者の一人として知られ、1626年(天啓6)に時の権力者で、東林党に対抗する閹党を従えていた魏忠賢の弾圧を受け獄死した。  黄宗羲は東林党の精神を引き継いだ政治結社復社に参加、1644年に李自成によって明が滅び、清が中国本土に侵入してくると郷里の子弟を組織して義勇軍を結成、清朝支配に抵抗した。彼は魯王朱以海の政権に協力し、1649年には長崎を訪れ日本の江戸幕府に反清の援軍を要請している(この時の一部始終は『日本乞師記』にまとめられている)。この時の要請は果たせず、結局反清復明の運動は絶たれてしまい、以後は故郷で著述に明け暮れる日々を送った。  清からは博学鴻詞科へ薦挙を受けたが彼はこれを固辞した。ただし、清の明史編纂事業にあたっては、自身の替わりに息子の黄百家と弟子の万斯同を赴かせている。これは明の国難に殉じた諸氏の歴史を後世に遺すという意図があったといわれる。