元豊8年(1258年)2月、父の太宗が譲位したため、即位することとなった。しかし実権は、太上皇となった父が掌握していた。
クビライの元から服属要求を受けるが、聖宗はこれを拒絶して、元と抗戦する姿勢を示している。
宝符5年(1277年)4月に太宗が没すると政治の実権を握り、宝符6年10月22日(1278年11月8日)、子の仁宗に譲位して太上皇となる。
紹宝6年(1284年)、チャンパ遠征のため鎮南王トガンの率いる元軍が派遣されたが、ベトナムは領内通過を拒否。チャンパと協力し、元軍に応戦した。
紹宝7年(1285年)正月、万劫・普頼山の戦に敗れ、紅河が渡河されると、聖宗は国都のタンロンを明け渡し、天長・長安の地に逃れる。しかし、4月には攻撃に転じ、5月に元軍が撤兵すると、これを追撃した。6月6日、聖宗はタンロンに帰還した。
重興3年(1287年)、元が再び遠征軍を派遣し、水陸三方面よりベトナムに侵入した。12月、元軍が紅河東岸に達すると、聖宗は叔父を使者として送るが、交渉は決裂。元軍が渡河すると、国都を棄てて天長海口の地に逃れ、さらに海上に逃れた。しかし、ベトナム軍が後方連絡を遮断すると、元軍に糧食欠乏が生じ、さらに疫病が発生した。このため、
重興4年(1288年)2月末には全軍撤退が決定された。
3月、撤退する元の水軍を、興道王陳国峻の指揮するベトナム軍が白藤江で待ち伏せ攻撃し、聖宗も遅れてこれに参加し、大勝した。3月27日(1288年4月28日)に国都城に帰還。